大ファンである沢野ひとしの優しいエッセイ集。

愛すべき山のエッセイ集

 この連載の第2回目で取り上げた椎名誠が書く、アウトドアや登山を題材にしたエッセイには、数多くの同行者が登場します。その中でも私が一番好きなのは、イラストレーターの沢野ひとしでした。かなりの山好きであることから、親しみを感じたのです。
 高校生のときから行動を共にしていたという椎名氏と沢野氏が、一緒に島や山に向かう様子は『怪しい探検隊』シリーズに面白おかしく記されて、読者を楽しませてきました。これらの著者は椎名氏で、イラストは沢野氏が担当。二人で作り上げたシリーズです。
 その沢野氏が、『山と溪谷』に『沢野ひとし[山の劇場]』というエッセイを連載したのは、1987年から1988年にかけて。私はちょうど登山を始めた頃であり、連載中にも時おり読んでいました。そして連載終了後しばらく経ち、『てっぺんで月を見る』というタイトルの本になったときにはさっそく入手。優しさと哀愁が入り混じった文章は心地よく、何度も繰り返し、味わうように読んだものです。
 椎名氏のエッセイの中での沢野氏は、自己中心的なちょっとおバカ系のキャラクターなのですが、この本からはそのような雰囲気は感じられません。まず冒頭のエッセイからが『呪われた岩壁』という、硬派なタイトルです。舞台はかつて魔の山とされた、谷川岳の一ノ倉沢。山に散った友人の記憶や不可解な老女との遭遇が描かれた、重い内容のものでした。
 他にも東京近郊での気軽なハイキングの様子が記される一方で、穂高や冬の八ヶ岳での登攀に加え、海外遠征の記録もあってバラエティー豊かです。
 さらにはスイスの名峰・アイガーの登山中に、自身が数百mもの滑落をした事故の顛末についても記されており、とても深みのある山のエッセイ集として仕上がっています。

登山者のブックシェルフ第14回
紹介した『てっぺんで月を見る』以外にも、沢野ひとしさんの登山を題材にしたエッセイ集は多数あります。『山の時間』の中に書かれる、息子の山岳会の仲間というのはおそらく私のことです。

小学生の息子のその後

 何度も読み返したこの『てっぺんで月を見る』の中でも、特に記憶に残ったのは『出発の日』と『息子との岩登り』の2編。どちらも当時小学6年生だった息子さんとの触れ合いを描いた、優しさに満ち溢れたエッセイです。
 特に『息子との岩登り』では、初めて岩登りを体験した息子さんが、元気よく登る様子が生き生きと記されていて、読んで楽しい気分になったものです。
 そしてそれと同時に気になったのが、この小学生だった男の子はどのように成長したのか、果たして岩登りや山登りを続けているのだろうか、ということでした。沢野氏のその後のエッセイを読む限り、たまに一緒に登ることはあるようですが、それほど親子仲は良さそうでない描写が多いので、ちょっと気がかりだったのでした。
 それから10年ばかり経った、2003年の春のこと。私の所属する山岳会に、「沢野牧」という名前の若者から、集会を見学したいとの連絡が寄せられました。
 集会の当日、会場に現れたその若者はひょろっと背が高くて手足が長め。まるで椎名氏が描写する、沢野氏みたいな雰囲気です。苗字も「沢野」だったことから、私は開口一番、
「沢野くんはイラストレーターの沢野ひとしに似ているね」
とつい口にしました。すると、
「はい、父です。子供の頃、父に連れられて何度かクライミングをしたのですが、もっと本格的にやりたいなーと思って、どこか山岳会に入ろうと考えているんです」
との返事。まさか、気になっていたあの男の子が、自分の前に現れるなんて! このときの驚きは、本当に腰を抜かすほどでした。
 興奮した私は、お父さんの大ファンであることを告げ、沢野牧くんにはその場で入会してもらいました。
 以降、牧くんとはとても意気投合し、しばらくの間はまるで兄弟かと思えるくらいの親密さで、あちこちの岩場を一緒に登りまくったのです。
 沢野氏ご本人にお目にかかったのは、牧くんと一緒に登るようになって、数年経ってからでした。牧くんに頼み込んで、紹介してもらったのです。
 ドキドキしながら『てっぺんで月を見る』を愛読していることを伝えると、ちょっと戸惑ったような表情で、
「もう、以前ほど山には登っていないのですよ」
とおっしゃりつつも、私の差し出した本にサインを入れてくださいました。そしてかつて登った山々のお話を伺い、とても幸せなひとときを過ごしたのでした。

(『週刊ヤマケイ』2018年4月12日配信号に掲載)