緊張感あふれる山岳遭難捜索ドキュメント。

山に消えていった仲間たち

 私の身近で初めての遭難が起きたのは、1992年12月のことでした。親しくしていた年長の知人であるFさんが、富士山の登山中に落としたトランシーバーを追い、急な雪面に踏み出して滑落。数百メートル下で、遺体で発見されたのです。
 当時のFさんは、年長とは言えまだ40代。残されたご家族の悲しみと苦しみは、とても大きなものでした。私はそのご家族とも親しかったので、支えになってあげたいと考えてそれからしばらくの間は、しばしば足を運んだものです。
 その次の年末のFさんの一周忌が終わったばかりの頃、こんどは広島に転勤した私と同じ山岳会のKが、伯耆大山で行方不明になってしまいました。このときは地元の皆さんの数日間に渡る懸命な捜索の末、北壁の基部で遺体で発見。このKは雪に埋没したために居場所が確定できず、皆さんが諦めかけていた捜索最終日の午後に、辛うじて見つかったのでした。
 1995年の8月には、山岳会の後輩であるSが、甲斐駒ヶ岳の岩壁・Aフランケの単独登攀に出向いたまま、下山しませんでした。この時は会のメンバー10名以上が、勤めを休んで捜索。その2日目に、Aフランケ最上部でロープにぶら下がったまま息絶えていたSを発見し、手配した民間のヘリコプターで回収しました。
 以降、現在に至るまで、ほぼ3年に1人の割合で、私の身近な人が山で命を落とし続けています。
 この人に限って、絶対に事故は起こさないだろう――そう感じるとても慎重な人が遭難したことも、何度かありました。けっきょく山では、遭難を100%防ぐのは無理なことなのでしょう。
 しかしそう思う一方で、行方不明だけは絶対に回避しなければならない、という強い思いがあります。広大な山岳地帯で行方不明になってしまうと、それを発見するのは容易なことではありません。
 上に挙げた例でも、Fさんはすぐに発見できたものの、KとSのときには、遭難場所を突き止めるまでが一苦労。最終的には多くの人手と、時間と、費用とを要してやっと発見しており、捜索する者の労力は計り知れないものがありました。

登山者のブックシェルフ第11回
左が今回メインで紹介した『いまだ下山せず!』。1994年の発刊当時は、多くの登山者に読まれていました。

難解なパズルを解くような捜索

 ちょうどそんな思いを抱いていた頃に手にしたのが、泉康子の『いまだ下山せず!』でした。出版元はなぜか、山岳とは全く縁がなさそうな宝島社。
 この本は、泉氏が所属するのらくろ岳友会で起きた、1987年正月の遭難について記したドキュメンタリーです。当時も少なくはなかった遭難の本の中でも、この本は異色でした。遭難そのものよりも、行方不明者の行き先をまるでパズルを解くように探っていく捜索者の側に焦点を当てた、巧みに構成された推理小説を思わせる内容だったからです。
 物語は1986年の末に、北アルプスの表銀座縦走を目指したまま予定日を過ぎても下山しない、のらくろ岳友会の3人の捜索がスタートするところから始まります。
 けれどもその後の6日間に渡る捜索では、3人の手掛かりは皆無。その時点で生存の可能性は絶望的と考えて、長期捜索に切り替わります。そこで問題になったのが、3人はいったいどこにいるのか?ということ。計画上で表銀座の核心部を通過する予定だった日は、実際は大荒れの天気。同じコースを目指していた他パーティの多くは、引き返すか、常念岳方面へのエスケープを強いられていたことが判明したのです。
 当時はインターネットがない時代でした。泉氏ら、のらくろ岳友会のメンバーは、手紙や直接会っての聞き取りで、それらパーティから3人の目撃情報を入手し、分析します。その結果、予定コースではなく、またエスケープルートとしても検討していなかった、ある別のルートに向かったのではないかと推定。雪融けを待ち、捜索隊を送ることになります。3人は果たして本当に、その場所にいるのでしょうか?
 山での行方不明に対処する人々の悲喜こもごもが、手に汗握る人間ドラマとしてまとめ上げられていて面白く、この本は一気に読み終えました。その後も、同様の遭難がもし自分の仲間に起きたらどうするのかとシミュレーションもしつつ、真剣になって何度も読み込みました。雪山へ向かうすべての登山者が、一度は読むべき一冊です。
 ちなみに山での行方不明は、探し出すことが困難なだけではなく、残された家族に多大な社会的、経済的な負担を残します。そのことについては北島英明氏の『山岳遭難は自分ごと』に具体的なことが書かれていて参考になります。
 また遭難を防ぐための考え方については、拙著『山のリスクマネジメント』と『山岳遭難防止術』もきっとお役に立つと思います。併せてこちらもご一読いただければ幸いです。

(『週刊ヤマケイ』2018年3月1日配信号に掲載)