三大北壁からヒマラヤへ、今井通子の登頂記。

小説とは別物だった実際の登攀記

 登山家で医師でもある今井通子が、女性パーティとしては世界初となるマッターホルン北壁の登攀に成功したのは、1967年。そのときの記録を中心に記した『私の北壁』を手にしたのは、新田次郎の小説『銀嶺の人』を読んでしばらく経ってからのことでした。小説の主人公である駒井淑子のモデルが今井氏ということがあり、この本はとても興味深く読み始めました。
 実は私はこの本に対しては、おそらく『銀嶺の人』と大きな違いはないだろう、といった先入観を抱いていました。私もその頃は既に多くの山の本を読んでいて、それなりに目は肥えていたつもり。その私の目から見ても、『銀嶺の人』は登攀場面がとても良く書けていた小説だったからです。
 ところがまったく予想に反し、『私の北壁』の読後感はまるで別物でした。気高い駒井淑子とは異なって、今井氏は上品ぶった様子は皆無です。ボーイッシュな雰囲気の、山岳会にはよくいるタイプの普通の女子といった印象で、まずその違いに驚きました。
 さらに『銀嶺の人』の上巻ではクライマックスとして描かれているマッターホルン北壁の登攀は、決して山場ということはなく、その前後に登った一連のヨーロッパでの山行の一つとして、あっさりと書かれていたことが意外でした。むしろマッターホルンの後に登った、エギュ・ド・ミディ南壁やグラン・キャピサン東壁のほうが、手に汗握る緊迫した場面が多いといっていいくらい。
 小説では読者の期待に応えるためにも、有名どころで山場を作らざるを得ないのでしょう。けれども現実は決してそんなことはなく、多少知名度の落ちる山であっても、勝るとも劣らない困難さがあるということを改めて感じたものです。

登山者のブックシェルフ第10回
朝日文庫から出ていた「登頂記シリーズ」全3冊。文章が解りやすいため、教科書に引用されたこともあったそうです。

医師としての視点に考えさせられる

 今井氏はその後、1969年にアイガー北壁、1971年にはグランド・ジョラス北壁を登攀します。その2つの記録をまとめた『続・私の北壁』はさらにくだけた書き口の、会話が中心の文章です。そしてこの本で描写されることの多くは、一緒に登る仲間たちの姿。緊張感があるようなないような、ユーモラスにも思えるこんな登攀記録は、男性にはちょっと書けない、今井氏ならではのものでしょう。
 以上の2冊に加えて、当時の朝日文庫の「登頂記シリーズ」でセットになっていたのが『私のヒマラヤ』でした。こちらは1975年の秋に行われた、カモシカ同人隊によるネパールの7661mの山、ダウラギリⅣ峰の登攀記録です。
 この隊での今井氏の立場は隊付きの医師であり、ルート工作にはタッチしない完全な裏方です。それでも第4次の登頂チームの一員として上部キャンプには到達するものの、天候が悪化し登頂は断念(他の隊員は11名が登頂)。したがって本人は山頂に立てなかった登頂記ではあるのですが、医師としての視点から見たヒマラヤ登山の描写は、とても新鮮でした。中でも現地の住民の求めに応じて診療をする場面では、

無意味なのだ。一回や二回の治療、その結果をこの目で見れないもどかしさ、抗生物質を使用することにより民間療法で過ごしていた彼らの抵抗力が狂ってしまうという恐れ、(中略)遠征隊のジプシー治療なんて頼りないものなのだ。

『私のヒマラヤ』

といった苦しい心情も書かれていて、考えさせられるものがありました。
 さらに大多数のヒマラヤ登攀記ではごくあっさりと記されるに過ぎない、山麓からベースキャンプまでを歩くキャラバンの様子も、とても詳細です。特に登っただけでは終わらずに、長く続く下山の苦しさもきちんと記されていて、ヒマラヤ登山の実際を伝える、貴重な一冊だと言えるでしょう。
 その後も今井氏は、ヒマラヤ登山を続けます。今となってはかなわない希望ですが、この『私のヒマラヤ』と続く今井氏の登攀記録をベースにした、『銀嶺の人』の続編、ヒマラヤ編を読んでみたかったと、そんなこともついつい考えてしまうのでした。

(『週刊ヤマケイ』2018年2月15日配信号に掲載)